移民と和歌山 3:カナダ移民—三尾村とフレーザー河の漁師たち
かつてカナダのフレーザー河で鮭漁に従事した人々の多くは、和歌山県の漁村・三尾村(現日高郡美浜町三尾)の出身者でした。彼らが住んだ地域は「カナダの三尾村」と呼ばれるようになるほど、同郷の人々が移民しました。またカナダから帰国した人々は英語交じりのことばで話し、西洋様式の生活を持ち帰りました。そうして三尾村は、通称「アメリカ村」と呼ばれる裕福な村になりました。*
日本から最初にカナダヘ渡った長崎県出身の永野萬蔵(ながの まんぞう)はカナダ移民の父として知られていますが、和歌山県におけるカナダ移民の父は、郷土三尾村の繁栄とカナダ鮭漁業の発展に貢献した工野儀兵衛(くの ぎへえ)です。
儀兵衛は1854年(安政元)5月23日三尾村に生まれました。14歳で京都の宮大工に弟子入りし、19歳の時、三尾村に帰り棟梁として働き始めます。1883(明治16)年頃、三尾浦に防波堤を造るという計画が上がったとき、儀兵衛は漁場争いや自然災害などにより追い詰められていた郷土の漁業を振興し、養魚場を造ろうと考え入札に参加します。しかし工費の点で話がまとまらなかったといいます。その頃、横浜に住み、カナダ航路の貨物船の船員をしていた従兄弟の山下政吉から、カナダは漁業や農場でも有望との手紙が届きました。これを受けた儀兵衛は1886(明治19)年、横浜に向かい、約3年の間にカナダ航路の船員などからカナダの状況、旅費・労働条件などを調査しました。帰郷後、弟や友人にカナダ渡航を誘いましたが従う者はなく、単身渡航を決意することになります。
1888(明治21) 年3月、儀兵衛は三尾村を出発して再び横浜へ、同年8月英国貨物船アビシニア号で横浜港を出帆し、9月5日にビクトリアに上陸後、バンクーバーを経由して、鮭漁業の基地であるスティブストンに到着しました。当地の漁場としての豊かさを目にした儀兵衛は、故郷に宛てた手紙のなかで「フレーザー河にサケが湧く」記して、弟や親戚・友人を呼び寄せました。そうして1889年には数名だったのが、その後毎年、十数名、数十名と、集団的に移民していきました。
1891(明治24)年、儀兵衛は白人の事業主に呼び寄せを依頼されて帰国した際、村民を連れてカナダに戻り、保証人として仕事の世話をしました。村では「連れもて行こら」(一緒に行こう)という合言葉が流行したといいます。儀兵衛は「加奈陀三尾村人会」の設立や「フレーザー河日本人漁業者団体」の結成にも尽力しました。当時のブリティッシュ・コロンビア州漁業活動の60~70%は和歌山県人により営まれ、三尾出身者がその中心をなしていました。このようにして、スティブストンに「カナダの三尾村」が出現したのです。
本稿は『移民と和歌山 先人の軌跡をたどって』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所 特別展図録、2014年)を編集・加筆したものです。