移民と和歌山:概要
日本における移民の歴史は、1868(明治元)年、耕地労働者として153人がハワイヘ渡ったこと、また同年40数名がグアムに渡ったことに始まります*。彼らは後に「元年者」と呼ばれ、最初の契約移民となりました。その後1871(明治4)年には「日本・ハワイ修好通商条約」が締結されたことで正式な国交が樹立、1884(明治17)年には「日本人ハワイ渡航約定書」が取り交わされます。翌1885(明治15)年2月8日、第一回官約移民953 人がハワイヘ渡り、これが海外への集団移民の始まりとされています。この時、和歌山県からも22人がハワイヘ渡り、同年6月の第二回官約移民983人のうちには、33人の和歌山県人が含まれていました。
当初、人々はさとうきび耕地における3年契約の労働を目的に渡航しましたが、1898(明治31)年にハワイ王国がアメリカ合衆国への併合決議案に署名、1900(明治33)年に準州になると、仕事を自由に選べるようになりました。特に西牟婁(にしむろ)郡田並(たなみ)など、主として紀南地方出身の漁師であった人々は、漁業の知識と技術を活かして後のハワイの水産業の発展に貢献したと言われています。
またハワイの合衆国併合は、日本人のハワイからアメリカ本土への移動、すなわち「転航」も可能にしました。特に開拓の途上にあったカリフォルニアは労働力が不足しており、それを補うための移民を歓迎したことで、カリフォルニアヘの渡航者が次第に増えていきます。職種としては、農業、鉄道、鉱山労働者、漁業、商工業が主なもので、いわゆるスクールボーイと呼ばれる住み込みで家事手伝いをしながら学校に通う者や小規模の商店を開く人たちがいました。
太地町やその周辺地域からも、多くの人々がカリフォルニアに渡っています。1900年代初頭より、ロサンゼルス港の一角のターミナルアイランド(あるいは東サンペドロ)と呼ばれる島に、日本人漁師のコミュニティが形成されていました。島民3000人程のうち大半が和歌山県出身者であり、その構成は日本生まれの一世とアメリカ生まれの二世で、男性は漁師として、そして女性は缶詰工場で働きました。現在、ターミナルアイランドに当時のコミュニティは存在しておらず、すべて第二次世界大戦時に一掃されてしまいました。今では、当時の記憶を呼び覚ましてくれる漁師の記念碑と鳥居が建造されています。
和歌山県からはカナダヘ渡り、鮭漁に従事した人も数多くいました。美浜町三尾からカナダヘの移民は、1888(明治21)年に工野儀兵衛(くの ぎへえ)がカナダのスティブストンに渡ったことに始まります。そこでフレーザー河の鮭の大群を見た儀兵衛は故郷に手紙を送り、漁師の技術を持つ三尾の人々を呼び寄せ、漁業を目的とする集団的移民が行われたのです。彼らのコミュニティはカナダの三尾村と呼ばれ、一方、移民先で成功を収めて帰国した人々は英語混じりの日本語を話し、また西洋式の生活様式を持ち帰りました。その様子から、美浜町三尾は、大正時代あたりから「アメリカ村」と呼ばれるようになりました。
海に仕事を求めた人々が目指したのは北米だけではなく、オーストラリアにも和歌山県人が多く渡っています。日本人の渡豪は1878年頃に始まり、1882(明治15)年には木曜島発展の先駆者といわれる中山奇流(なかやま きりゅう)が和歌山県から、また広島県からは渡辺俊之助(わたなべ としのすけ)が渡豪しました。彼らの主たる労働のひとつは高級ボタンの材料とされた真珠貝の採取で、オーストラリア北岸のダーウィンやブルーム、木曜島は有数の採貝地として知られています。1897(明治30)年には全豪在留邦人が2000人を突破、木曜島で採貝労働に従事する者は900人に達し、その約8割は和歌山県人であったとされています。とりわけ紀南地方出身者が多く、彼らは優秀な真珠ダイバーとして活躍しました。しかしダイバーの仕事は命がけで、潜水病やサイクロンで亡くなった人も多数いました。そのため有数の採貝地には日本人墓地があり、たとえばブルームの日本人墓地には707基919名の墓碑が建てられています。
太平洋と山々に挟まれた紀伊半島沿岸地域の人々の多くは、先駆者との地縁的なつながりによる呼び寄せで移民しました。そして渡航先では故郷を同じくする人々のコミュニティを形成しながら、持てる技術や知識を活かして漁師やダイバーとして労働に従事します。生まれながらに海とともに生きた人々にとって、太平洋を囲んで位置する国々への心理的な距離感はさほど遠いものではなかったようです。
和歌山県下において多くの移民を輩出したのは、紀伊半島の沿岸部だけにとどまりません。県北部、紀ノ川の中流に位置する那賀(なが)地区(旧那賀郡)は、和歌山県からアメリカへの移民が行われた最初の地域とされており、その那賀地区でも第一位の移民村が池田村(旧打田(うちた)町)です。池田村出身の本多和一郎(ほんだ わいちろう)は福沢諭吉の塾に学び、帰郷後の1880(明治13)年、私塾共修学舎を開きます。そして渡米相談所を舎内に設け、洋学、漢学、歴史教育を行いました。ここから渡米した塾生には、貿易商、神学博士、元ドイツ大使など名士と呼ばれる立場の人が多くいます。加えて1881 年ごろから巡回伝道にやってきたJ・B・ヘール師の影響も大きく、1883(明治16)年に和一郎も洗礼を受けました。
和歌山県からブラジルヘの移民は1916(大正5) 年頃には始まっていたようです。第2次世界大戦の前後を通じ、約6000人(1600家族)の県民がブラジルに移住しました。第2次世界大戦へのブラジル参戦により日本とブラジルの国交は一時断絶しますが、1951(昭和26)年の国交回復を経て、1953(昭和28)年にブラジル移住は再開します。この移住再開に大いに貢献したのが、和歌山県日高郡岩代町(現みなべ町)出身の松原安太郎(まつばら やすたろう)でした。松原は1918(大正7)年に移民の通訳としてブラジルに渡っており、当時のヴァルガス大統領とは深い親交を結んでいた人物です。1952(昭和27)年、一時帰国した松原は、8年間で約4000家族、合計約2万人をブラジルに受け入れる移住計画の実行について、政府の要人と折衝し、それに応じて日本政府は全国から移民を募集することとなりました。そうして1953(昭和28)年、和歌山県から22家族112人が松原の移住していたマットグロッソ州ドラードス連邦植民地に移り住み、これが和歌山県の戦後移民の第一陣となりました。
本稿は『移民と和歌山 先人の軌跡をたどって』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所 特別展図録、2014年)を編集・加筆したものです。