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石垣栄太郎

ISHIGAKI Eitaro, 1893–1958


和歌山県東牟婁郡太地村(現・太地町)で、船大工の石垣政次の子として生まれる。太地高等小学校から新宮中学校に進学するが、1909(明治42)年に先にアメリカへ渡っていた父に呼ばれ、中退して渡米した。シアトルからベーカーズ・フィールドなどで働き、1911年にはサンフランシスコに移る。日本人のメソジスト教会で英語や聖書、社会主義の本などにも親しみ、詩人の管野衣川と、その妻の彫刻家ガートルード・ボイルと知り合う。ガートルードとの出会いは、石垣が美術の道へ進むことを決定づけ、彼女の紹介でウィリアム・ベストの私塾や美術学校に通う。のちにガートルードとは恋愛関係となり、1915(大正4)年にニューヨークへと移る。茂木スタジオや『紐育新報』などで働きながらアート・ステューデンツ・リーグでジョン・スローンに学び、国吉康雄や清水登之らと知り合う。1918年には、片山潜を中心とする社会主義研究会(在米日本人社会主義者団)に加わる。画彫会の結成に関わり、1922年「ニューヨーク市日本人美術家協会絵画彫刻展」、1927(昭和2)年「紐育新報社主催 邦人美術展覧会」などにも参加。1925年の第9回独立美術家協会展に出品した《鞭打つ》がアメリカの画壇へのデビューとなる。1929年、ジョン・リード・クラブに参加し、メキシコ壁画運動の担い手であるディエゴ・リベラたちと知り合う。1935年には、WPA(公共事業促進局)の仕事として、ハーレム裁判所の壁画制作に主任として携わる。助手として山崎近道も参加。しかし1937年、アメリカ市民権がないことから解雇され、1938年に公開された際は、住民からのクレームにより撤去されてしまった。1936年、アメリカ美術家会議に委員として参加。ACAギャラリーでは、2回個展を開催(1936年、1940年)した。太平洋戦争時は、敵性外国人して規制を受けながら、妻の田中綾子や国吉康雄とともに日本の軍国主義を批判する。戦後、レッドパージ(赤狩り)によってアメリカを追われ、1951年、帰国して東京都三鷹市へ住んだが、本格的な活動をできないまま、1958年に65歳で死去。(文責:奥村一郎)

参考文献

  • 『アメリカの中の日本 石垣栄太郎と戦前の渡米画家たち』、和歌山県立近代美術館、1997年[展覧会図録]。
  • 『生誕120年記念 石垣栄太郎展』、和歌山県立近代美術館、2013年[展覧会図録]。