移民と和歌山 1:アメリカ移民——那賀地方・共修学舎と塾生たち
和歌山県からアメリカへの移民が行われた最初の地区であったとされているのが、紀ノ川の中流に位置する那賀(なが)地区(旧那賀郡)です。そのなかでも最大規模の移民村が池田村(旧打田町)でした。池田村あるいはこの周辺地域から多くの渡米者が輩出された要因には、伊達多仲(だて たちゅう)、本多和一郎(ほんだ わいちろう)、J・B・ヘール(John Baxter Hail)牧師の存在がありました。
池田村三谷出身の伊達多仲は、1872(明治5)年頃に新島襄と前後して米国に渡った人物として知られています。多仲の叔父の伊達伯爵は黒田開拓使とともに北海道で牧場を経営しており、一時その牧場で働いていた多仲は、牧場で雇われていた米人技師と懇意になりました。そうして米国事情を聞き及んだ多仲は、その技師が帰国する際にともに渡航し、米国の大学に学んで牧師となります。帰郷した多仲によって米国事情が伝えられたことで、村内の人々の渡航への気持ちが高まっていきました。
池田村北大井出身の本多和一郎は福沢諭吉の慶応義塾に学び、帰郷後の1880(明治13)年、私塾共修学舎を開きます。舎内には渡米相談所を設け、洋学、漢学、歴史教育を行いました。ここに学んだ塾生には渡米して成功をおさめた者も多く、堂本誉之進(どうもと たかのしん・渡米、貿易商)、堂本憲太郎(どうもと けんたろう・渡米、園芸家)、三谷幸吉郎(みたに こうきちろう・渡米、神学博士、「滝本」と改姓)、里村達之助(さとむら たつのすけ・渡米、実業家)、有本常太郎(ありもと つねたろう・同志社出身旧和中教師)、本多熊太郎(ほんだ くまたろう・元、ドイツ大使)、根来源之(ねごろ もとゆき・『和歌山県移民史』149頁)ら多くの名士が名を連ねています。また本多と共に慶応義塾に学んだ児玉仲児(こだま ちゅうじ・現紀の川市粉河出身)が猛山(もうざん)学校を開校したように、何校もの私塾が開校されていました。
J・B・ヘールは、1877年(明治10)に宣教師として来日、1879(明治12)年に大阪市西区南堀江町に家を借りて、兄A・D・ヘールと共に公開説教を始めました。1881(明治14)年には小幡駒造を伴い紀州伝道を開始し、1893(明治26)年には和歌山市へ移住、紀北、紀南、三重県、奈良県各地まで赴いています。こうした宣教活動を通じて、ヘール牧師は和歌山の人々にアメリカを紹介したのでした。なお1883(明治16)年には本多和一郎もヘール牧師から洗礼を受けており、共修学舎を根来から北大井の自宅に移して、ますます郷土の青年の教育と伝道に献身しつつ新進発展の気風を吹き込んだとされています。
那賀地区から渡米して成功を収めた人々のひとりに、湯浅銀之助(ゆあさ ぎんのすけ・龍門村荒見、現紀の川市荒見)がいます。湯浅は1890(明治23)年にみかん輸出のため渡米し、サクラメントで果樹園の仕事に従事しましたが、1897(明治30)年には雑誌『新日本』を創刊、また1902年には新聞『羅府日本』を創刊するなど、南カリフォルニア在留日本人のリーダーとして、南加和歌山県人会の初代会長も務めました。
龍門村出身の西九一郎(にし くいちろう)もまた、湯浅の呼び寄せで渡米したひとりでした。西は1905(明治38)年に渡米し、当初農場での労働に従事します。1907(明治40)年に弟の安喜良(あきら)も渡米すると、ふたりは1908(明治41)年にパサデナ市でローズ植木園や庭園業を経営し、品種改良など創意工夫と努力を重ね、成功を収めました。終戦後はロサンゼルスで植木造園業を行い、さまざまな要職に就いています。切り花組合から授与された感謝状や南加和歌山県人会と記されたトロフィーが、彼らの活躍ぶりを示しています。
梅田寅之助(うめだ とらのすけ・池田村北大井生まれ)は1899(明治32)年、おそらく近隣の知人を頼って、21歳で渡米しています。サンフランシスコ到着後、語学研修を受け、その後日本美術商を経営し始めた頃には弟3人も渡米しました。1906(明治39)年のサンフランシスコ大地震で店舗家屋のすべてを失ってしまいましたが、その後は農業に従事、また食糧雑貨店を経営するなど、1921(大正10)年に帰国するまでの22年間を米国で過ごしました。梅田が残した数多くの写真、メモ、手紙、書籍などは、当時の日常生活を伝えてくれます。
本稿は『移民と和歌山 先人の軌跡をたどって』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所 特別展図録、2014年)を編集・加筆したものです。